「それでもあなたを離れない」 08.03.09
ヨハネ6:60〜71
主イエスにつまずき、離れていった人たちの姿があります。
多くの群集がいましたが、十二人になりました。人々が、
この世の見える事柄に心を奪われていたことに、つまずきの
原因のひとつがありましょう。人々は、主イエスが命がけで
与えようとしている救いが、自分の願いとは違うことに気付き
ました。そして、主イエスから離れていきました。
主イエスは、この世の肉体に関わる具体的な生活の事柄を
軽んじるのではありません。病人を癒し、空腹を満たされました。
人々の肉の生活の事柄を、だれよりも心に留めておられました。
その主イエスがあえて「肉はなんの役にも立たない」とおっしゃいます。
それは、霊の与える永遠の命に心を向けて欲しいからです。
人は、この世の事柄に目を奪われて、永遠の命を見逃してしまう
ことがあります。何かの問題を抱えている時には神さまを求めながら、
いざ問題が解決すると神さまから離れていくことがあります。そして、
霊による永遠の命を与えられた神の民として生きていく幸いを逃して
しまう。それは、とても残念なことです。主イエスは、霊の命を受けて
欲しいと心から願っておられます。
キリスト教会の歴史には、霊による永遠の命をじっと見据えて
歩んだ信仰者がたくさんいました。初代のクリスチャンたちは、厳しい
迫害の中で命がけで礼拝を守りました。日本のキリシタン迫害の
時代の信仰者たちもそうです。この世の肉なるものをすべて奪われ、
命も奪われました。
しかし、永遠の命の確かさを知っていました。現在の私たちは、
迫害が起こりすべてを奪われるように事態になったら、信仰者として
歩めるでしょうか。
私たちは、永遠の命を見据えながら、神の民として、この世の
与えられた生を生きるのです。
「あなた方も離れて生きたいか」と問われる主イエスは、
弱さを抱える弟子たちと歩まれ続けます。
「でも、わたしは離れないよ」 そんな主イエスの言葉を
聞きながら歩みを続けるのが、私たちです。